父が与えてくれた自信

お盆。世間では帰省して家族と過ごすのが一般的らしい。

 

僕は30歳を目前にしながら、いまだに人生を迷い続け、何とか派遣勤めを続けている身。多くの同世代のように、結婚して子供も生まれ、勤続8年の会社では中堅となり、たまには実家で一息つくか、そんな気には到底なれない。

 

他の人と違う生き方をしていることは好きだが、かといって今の自分の状態が好きというわけではない。

 

最大の問題は、自分に自信を持てないまま生きていることだと思う。

 

どうして自分に自信が持てないのか、そんなことを地下鉄に乗りながらふと考えた。周りの人たちは、まさか僕がそんなことを考えているとは思うまい。

 

人のせいにするつもりはない。しかし、客観的に分析すると、どうも10代の頃の経験が強く影響しているように思えてならない。それは父の失業だ。

 

父は、戦後まもなく、新潟県に生まれた。布を染める、染色という技術を高校で学び、18歳のときに愛知県に来た。身寄りもない中、腕一本でひたすら勤め続けた。多くを買ったことはないが、酒や女に溺れた時期もあったと思う。それでも同じ会社で黙々と働き、40を超えてようやく結婚した。病気がちでバツイチの女、それが僕の母だ。

 

家庭を持った父はますます勤勉に働き、会社役員となった。2歳前後、歩くことを覚えた僕は、よく父の会社を見に行った。会社といっても小さな工場だったが、2歳の僕にはチャーリーのチョコレート工場だった。薄暗い鉄の階段を上ったところに、空まで届きそうな大きくて重い扉がある。それを父が開けてくれた。父は僕にとって、成功者だった。トヨタの役員とか、そういう感じのすごい人だと思っていた。僕も父のようになりたいと思った。

 

僕が中学生の時、父は怪我をした。布をプレスする機械に指までプレスし、引き抜いたら指の肉が持っていかれたのだ。肉を移植するため、しばらく腹に指を突っ込んだまま病院で暮らした。退院した父を見て、初めて弱々しさを感じた。そのわずか3年後、父が40年勤めた会社が倒産した。繊維業界の他の会社同様、中国に仕事をとられたためだと解釈したことを覚えている。

 

僕はといえば、中学時代はヒーローだった。文武両道で、好奇心の塊だった。憧れた父のように、技術者になろうと思っていた。学年で常に3位以内の成績を保ち、時習館高校よりもおもしろそうだからという理由で岡崎高校に進んだ。僕の中学から岡崎高校へ進学した生徒は久しぶりだった。ところが、その時点ですでに、僕の心の支えだったすごい父はいなくなっていた。

 

高校へ進んだ僕は、思い出すのも恥ずかしいくらい、落ちこぼれた。県下トップクラスの高校にあって、入学当時は上位25%に入っていたのに、2年目以降は下位75%だった。部活に精を出した風に見せていたが、部活は言い訳に過ぎなかった。もともと全国大会の常連だったから、自分が頑張っているわけでもないのにすごい成績を出し続けた。そこに安住していた。何より問題なのは、自分が目指すべきものが何もなかった。

 

そんな中で、父の会社が倒産した。ハローワークに通いながら、家にいることが多くなった父を見ていた。その時は気にしていなかったが、実はこれが大きな影響を与えたのだと思っている。憧れていた父が、怪我をし、一生を捧げた会社はつぶれた。何のために頑張るんだろうと思った。

 

大学進学にあたり、僕は理系から経済学部に進んだ。技術があっても社会のことを知らなければダメだと思った。確かに本気でそう思っていた。でも裏では、どうせがんばっても報われないから、楽に行けるところを選んだ。

 

そこから先のことはまた別の機会に書こう。とにかくこうして僕は、世の中はがんばっても報われないものだと思うようになった。夢と希望を失った20歳は、酒と煙草と女に快楽を見出し、繰り返し借金を作った。親がそのたびに、勤勉に作り上げた貯金を取り崩した。それでも僕は繰り返し借金を作った。そうして20代が過ぎていった。

 

いまだに僕には確固たる夢や希望はない。けれど、今までと違うことがある。ありのままの自分の弱さを認識できるようになった。社会の中での立ち位置をわきまえるようになった。そして、少しでも自分のできることをやっていこうと思えるようになった。

 

もう父は自信を与えてくれない。自分に自信を与えられるのは、自分しかいない。